はじめまして。潜在意識へ素早くアプローチし、脳と心と体をつなぐ
セラピスト かとうていこ と申します。
トラウマ、過剰なストレス、身体の不調、心と脳が疲弊して思うような毎日が過ごせない方へ、悩みの根本原因である「脳痕」を解消する事で、あきらめかけていた心と体の不調が改善し、あなたらしくイキイキと過ごしていけるようなお手伝いをしております。
私の生い立ち
<自由奔放な幼少期>
私は栃木県小山市でサラリーマンの父と専業主婦の母との間に生まれ育ちました。
小さい頃は歌うことが大好きで、当時流行の歌謡曲やCMソングなどは一度聴いただけで覚えてしまい、マイマイクを持っていろんなところで歌っている子でした。また、近所に遊びに行くと夕ご飯やお風呂まで入ってきて良く母親に「お前は鉄砲玉みたいだね!行ったらなかなか帰ってこないんだから・・・」と嘆かれていました。
<楽しかった学童期>
小学校時代、大好きな音楽と体育に取り組み、合唱の素晴らしさに出会ったのが、小学校3年の時でした。それまでひとりで楽しく歌っていましたが、みんなで歌うことでハーモニーが生まれ、歌の響きの素晴らしさに目覚めました。
幼稚園時代から習ってきたドリマトーン(河合楽器)の練習に明け暮れ、関東大会に出場したり、バレーボール部に入部し、体を動かすことの楽しさを覚えました。
<中学でのいじめに落ち込む日々>
中学校に入り、バレーボール部に入部しました。先輩後輩という考え方に戸惑いながら、ボール拾いに明け暮れました。
推理小説に目覚め、アガサクリスティや赤川次郎の小説をお小遣いをもらう度に買って読みあさっていました。アニメにもはまり、セル画を集めたり、アニメ雑誌を読んだり、声優にも憧れラジカセに自分の声を吹き込み、DJ気取りで楽しむこともありました。
中三の時にクラスの女子からいじめを受けるようになり、落ち込む日々が続いていました。毎日学校に行くものの女子とは口を聞いてもらえず無視され、仲の良かった女の子も離れてしまいました。「私って嫌われているんだ・・・」「何で私がいじめられるのだろう・・・」と悩み、とても寂しくて悲しくて、食事もあまり食べられませんでした。
当時の副担任の音楽の先生がそんな私の事を心配してくれ、ドライブに連れて行ってくれたり、慰めてくれたおかげで自分を受け入れ学校生活を続ける事が出来ました。数ヶ月後、いじめていた子達から、私について誤解していたと謝ってきてくれ、お互い和解することが出来ました。その時は本当に嬉しかったです。
<国内外での交流体験を経験した高校生活>
県立高校へ進み、女子だけしかいないことに半ばショックを覚えながら、生徒会副会長、生徒会会長、と選挙に出ると何故か当選してしまいます。
1000人近い女子達の前で挨拶する日々が始まり、手元に話す内容を書いた紙を持たずに挨拶をしたことで、今までにない会長と話題になっていました。
部員の少ない合唱部に所属し、合唱の素晴らしさをみんなに伝えて、部員を募り、毎日練習を重ねた結果、全国大会出場を果たします。
2年生の時にはアメリカ留学を2週間ほどしてカルチャーショックを覚えた記憶があります。
朝食はお母さんが作ってくれるものだと思っていましたが、ホームステイ先のお母さんは、朝食は子どもに任せていて、シリアルに牛乳をかけて学校に行くという事があり、驚きました。
また、大金持ちのお嬢様の家にお呼ばれしたときには、地下室があってそこに卓球台や、アップライトピアノなどが置いてあり、友だちが集まってパーティしていることにも驚きました。
女子高生はみんな化粧してるのが当たり前で、私達日本人の学生は皆制服を着ていたこともあってか、中学生に見られていました。
学校の朝の時間には、廊下で水着を着てボディの美しさを表現していたり、チェーンを腰に巻いてファッションショーをしていたり、とても日本の高校では考えられないような事が行われていました。表現の自由はとても尊重されていたなと思います。
その反面、始業時間は厳しく、遅刻をすると、校内に入れてもらえず、反省文を書かされ、先生からの指導を厳しく受けるという事も知り、そういう所は日本より厳しいかもと思いました。
<大学での大失恋>
大学は山梨の公立大学へ進学し、モダンダンスとムササビの追いかけっこに明け暮れました。ひとり暮らしを満喫しながら大学生活を送っていましたが、ある日ひとりの男性と出会います。
彼はダンサーで、とても魅力的な人でした。ダンスを習っている内に惹かれて恋に落ちます。彼から告白され、恋愛関係が始まりました。本当に大好きで愛するってこういうことなんだなと生まれて初めて感じました。彼とはハイキングに行ったり、スキーに行ったり、楽しい時を過ごしました。でも、彼は編入生だったので、1年で卒業を迎えます。
卒業してからも彼に会いに行きましたが、遠距離恋愛は長く続きませんでした。彼には新しい恋人が出来た事が分かり、電話で別れを告げられました。
その時のショックは今でも忘れられません。本当に大好きだったのにこんな悲しい事ってあるの?と泣いて泣いて顔が腫れ上がって・・・。
親友にそのことを打ち明けると、一晩中私の悲しい気持ちに付き合ってくれ私にとって親友との絆を深める出来事にもなりました。
<困難な就職活動>
就職活動で問題が起きました。私は集団生活が苦手で、特に女の子同士でつるんで行動する事が苦手でした。
企業説明会に足を運ぶものの、人の多さに圧倒され田舎で育った私にとってはとても居心地の悪いものでした。こんな大きなところで大人数の会社で働くことなんて私には出来ない!と就職活動をさっさと切り上げました。
地元の教員になるための教員採用試験に挑むものの不合格になり、大学院に進むか就職難民になるか・・・?悶々として大学卒業を迎えます。
3月になり、地元の教員の臨時採用枠に応募してみたら?という誘いを受け、ダメ元で応募してみると、なんとピアノが弾けると言う事で近くの小学校への配属が決まったのでした。その時に出会ったのが主人でした。
<子どもから学んだ教員時代>
小学校教員となり2年生の担任を任されました。子ども達はとても素直で可愛かったですが、授業を進めていく事や、子ども同士の関わりなど、悩むことも多くありました。
ピアノが弾ける事で校歌を弾いたり、合唱部の立ち上げを任されることになりました。初めてのことで分からないこともあり、先生方に相談していろいろ助けて頂きながら、四苦八苦しながらも、子ども達と合唱の楽しさを分かち合うことが出来ました。その結果、市のコンクールで優勝する事が出来ました。
転任した学校で3年生の担任を持ったときに、クラス内でいじめがあることが発覚しました。いじめられている子どものお母さんから「息子が、クラスの男子にいじめられているようなので、様子をみていただけませんか?」という相談を受けたのです。私は、自分のいじめられた経験からすぐに子ども達に真相を聞きました。
「いじめたことが本当なの?どうしていじめたの?何か悩みがあったの?いじめられた子の気持ちを考えてみたことがある?」などを話し合いました。
いじめた子ども達にも不安や悩みがあったようなので、詳しく聞き、その腹いせでいじめをしたことは良くない事を話し、納得してくれたようでした。
後日いじめられた子のお母さんからお手紙を頂き、いじめがなくなり息子が元気に楽しく学校に行けるようになり嬉しいです。との内容でした。私は、ほっとすると共に、子ども達が理解してくれて良かったなあと思いました。
子ども達と触れ合うことはとても楽しくて、沢山元気をもらいました。子ども達の個性を尊重しつつ、命の大切さや、友だち、先生、家族との関わりの大切さを学び合うことが出来たことは、私にとって宝物の経験となりました。
母として親として
<幸せな結婚生活>
教員生活は約4年過ごし、結婚して1年は教員を続けましたが、長男を出産するのをきっかけに子育てに専念するため退職しました。「教員として子ども達を教育すること」と「母親として家事育児をすること」の両立は私にとって難しいだろうなと感じたからです。
結婚当時は実家から15分ほどにあるアパートに住んでいました。6年間の間に3人の子どもが生まれ、そこではご近所の方にも恵まれて、子ども達ものびのびと遊ぶ事が出来、楽しく暮らしていました。
<母の言葉でパニック発作を起こす>
長男が小学校入学するのをきっかけに、実の両親と二世帯住宅に住むようになってから、両親と夫の狭間で悩むようになりました。今までアパートで5人で自由に暮らしてきましたが、同居するようになって、親達のルールを押しつけられているような感覚を覚えるようになってきたのでした。
ある日、テレビを見ていた母親の何気ない一言「悪いことしてるんだから死んじゃえば良いのにね!」という言葉に何故かパニック発作を起こして呼吸困難になり、救急車で運ばれることが起こったのです。
それから、精神安定剤を服用する事になりました。人前に出ることが辛く、子ども達を学校に送り出すことも不安でドキドキしてしまったり、お母さん達になるべく合わないようにするという状況が何年か続きました。でも両親や子ども達には、薬を飲んでいることは黙っていました。
<次女の発作>
それから数年後、次女がバス通学のバスの中でてんかん発作を起こし、救急車で大学病院に運ばれる事が起きました。病院に着いてしばらくしてから目が覚めると何事もなかったかのように普段通りの様子でした。
二度目の発作があったらその時から投薬が始まることを告げられ、その二日後の早朝、二度目の発作がおき、投薬が始まりました。私は、西洋医学を信じて娘の病気が良くなることを祈りながら数年間過ごしてきました。
しかし、薬を増やす度に娘がうつろな目をして、笑わなくなっていく様子を見て、何かがおかしいと薬の副作用について調べ愕然とした私は、知らなかったとはいえ「なんてことをしてしまったのだろう」と娘に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
薬の未知なところ
私自身、精神安定剤を服用していて、その副作用を知ったこともショックでした。まずは自分の薬を減薬していこうと決めました。そして娘にも自分の気持ちを素直に表現出来るよう、笑顔のある生活を送って欲しいと心から願い、減薬していくことを決めました。
離脱作用が強く出ないようにほんの少しずつの減薬から始めましたが、娘が笑ったり、感情を示してくれたり、前向きに生きている感じが見られるようになって嬉しく感じました。
自然療法との関わり
子どもが小さい頃から、風邪を引いて熱が出たら豆腐シップ、こんにゃく湿布、びわの葉療法、梅エキスなどの自然療法で改善してきました。
また、西洋レイキを習って、気の流れを良くするような手当てをしたり、エネルギー療法を習って、体の不調を緩和したり、人が持つエネルギーによって不調が改善する療法を学んで生活に活かしてきました。
しかし、大きな病気は西洋医学でしか治せないという固定概念がありました。その考えを大きく覆されたのが、ホメオパシーとの出会いでした。
ホメオパシーとの出会い
ホメオパシーとの出会いは2016年1月次女が中学3年の頃でした。自然療法で次女の病気を改善出来るものはないかとネットで探していたところ、ホメオパシーを知り、発達障害のお子さんの改善例を数多く出していることが分かりました。
私はわらをもつかむ思いで動画を観まくり、ホメオパスを探して次女の健康相談を受けるようになりました。
ホメオパシーは自分自身が持っている恒常性維持機能ホメオスタシスを触発し、自分の中にある非自己を外へ押し出すという療法のため好転反応が強く出る場合があります。次女もホメオパシーのレメディを摂ってすぐに強い好転反応が起きました。
それだけ彼女の中に非自己が存在していたと言う事なのですが、その好転反応があったことで、次女は少しずつ元気な様子が戻ってきました。
私自身もホメパシーを学びながらレメディを摂ることで、心と体の不調が改善されていきました。
最愛の主人との別れ
<大好きな主人のこと>
主人は、小学校の教員をしていました。部活動の顧問などもしていたので、土日は大会や練習などで殆ど家にいることがなく、家族旅行なども数回しかありませんでした。それでも、主人なりに子ども達のことを考えて、休みの日には、子どもが活動している部活の大会に応援に来てくれたり、何か困ったことや問題が起きたときには真剣に相談に乗ってくれていました。
音楽が大好きで主人と私の共通の趣味でもありました。大学ではバンドを組んでいたので、休みの日にはギターを弾いてストレス発散をしていました。
<愛する主人の死>
主人はちょっとした不調の時にはレメディを飲んでいました。主人の腰の痛みや歯の痛みの時などにレメディをあげると「これって凄いね!痛みがなくなったよ!」と感激していました。
ところがそんな主人の体には病魔が潜んでいたのでした。「風邪を引いたかな?声の調子が良くない」と近くの病院に行くと大きな病院で検査をした方が良いと紹介状をもらってきました。
大学病院で精密検査をすると肺腺癌と診断されたのです。主人も私も本当に驚きましたが、しっかり治してまた先生として頑張ろうと病気療養の為に休暇申請をしました。
仕事を休むということは、30年以上教員生活をしてきて初めてのことだったので、主人としても、子ども達や先生方に申し訳ないという気持ちが強かっただろうと思います。
それまで、大好きだった揚げ物や炭水化物を控えて、体に良い野菜や良質のタンパク質などを積極的にとり、ストレスを溜めないように大好きな音楽や絵を描いたりする日々を過ごしました。
子ども達とも触れ合う時間を持ち、のんびり過ごせていました。食事を見直して2週間が経った頃、肌の色艶が良くなってきているのを感じました。これなら良くなる!と確信し、主人と「頑張ろうね」と励まし合いました。
しかし、病魔は主人の体を徐々に蝕んでいたのでした。少しずつ体力が落ちてきて、病気が分かってから約1ヶ月経った頃、「少し息が苦しい」と訴えたので救急車を呼びました。
主人はちょっと検査してくるだけだから、すぐ帰ってくるよという感じで、トイレを済まし、階段を自分で降りて、救急車に乗り込みました。
救急車に乗って5分くらいすると、急に苦しいともだえ始め、そのうち心停止となり心肺蘇生が始まったのでした。私は何位が起こっているのか分からず、ただ、「パパ!パパ!」と叫んでいました。
病院に着き、先生から「肺に繋がる管が詰まってしまって、もうどうにも繋げることが出来ません。このまま心肺蘇生を続ける事は難しいです。」と告げられてしまいました。私は、「このまま心肺蘇生を続けてもパパは生き返らないんだ・・・無理矢理続けてもパパの体が壊れちゃうかも知れない・・・」と断腸の思いで、先生に心肺蘇生を止めてもらいました。一緒にいた長男が大声で泣き叫びました。
私は主人に「ごめんなさい!ごめんなさい!と大声で謝りました。ショックが大きすぎて涙が全く出てきませんでした。
<苦悩の日々>
主人の死を受け止められないまま、主人の亡骸と一緒に我が家に戻ってきました。さっきまで歩いていたのに、「明日は免許証の書き換えに一緒に行こうね」って話していたのに、どうして息をしていないの?どうして冷たくなっていくの?私は主人がここで横になっていることが嘘みたいで、心ここにあらずという感じでした。
翌朝、長女が主人の死を知り、泣き崩れていました。私はこれからどうしていけば良いのか途方に暮れていました。
でも、主人は現役の教員だったので、親族や学校関係など多方面の方に訃報をお知らせしなくてはなりませんでした。また、葬儀のことなども進めなければならず、どこの葬儀会社に頼んだら良いのかさえも分からない状態でした。
私の直感を信じ、ここだと思える葬儀屋に連絡し、相談しました。するととても良心的な葬儀屋さんに出会えることが出来ました。
亡くなってから葬儀まで1週間あったので、それまでに主人が満足してくれるようなお葬式をしてあげたいと思い、子ども達にも相談し、主人が大好きだったアニメを描いた絵を展覧会風に飾ってもらったり、ライブが大好きだったので、亡くなる半年前に私が所属する合唱仲間の発表会で披露した弾き語りの録音テープをお通夜の時に主人の「ラストライブ」と称して流してもらったりしました。家族が納得する形で主人を見送ることが出来たのは良かったなと思いました。
でも、主人が火葬された時は、子ども達と思いっきり泣いてしまいました。
葬儀が終わると49日法要や仏壇のことなど決めることが多くてゆっくり休む暇はありませんでした。
「どうしてもっと主人を労ってあげなかったんだろうか?」「もっと早く分かっていれば、私が気づかなかったのはダメな妻だ!」など悲しみと罪悪感にさいなまれる日々が続き、1年以上、息をして生きていることがやっとの毎日を過ごしていました。
<前向きに生きる>
主人の事を思い出す度に泣いていました。買い物をしているとき、主人が横を歩いていたよなとか、私に合う洋服を選んでくれたよなとか。ローリングストーンズや忌野清志郎さんの曲を聴いたり、アンプに繋いで思いっきりギターを弾いたり、集中して絵を描いてたりしていたなとかパフュームのライブを観て嬉しそうにしていたなとか。いろんな思い出が溢れてきていました。
でも、息子や娘が主人が亡くなったことで塞ぎ込んでいるのを見たときに、私には3人の子どもや両親がいる!いつまでもメソメソ悲しんでばかりいられない!私がこれからしっかり生きて行かなければ主人に申し訳ない!私の持ち前の明るさと元気で子ども達を支えていこう!という気持ちの変化が訪れました。
その時から両親や妹家族、友人など、周りの方にいろいろと支えてもらいながら、「一歩ずつ前を向いて生きて行こう」と明るくポジティブな考えで過ごせるようになりました。
「THE BRAIN]との出会い
<次女の入院>
2023年6月末、次女が肺炎になり緊急入院しました。私や家族も体調を崩しましたが、ホメオパシーのレメディで治癒する事が出来ました。
次女は集中治療室におり、面会も出来ずレメディを飲ませることも出来ない状態でした。私はとても不安で夜もろくに眠れませんでした。病院の先生や看護師さん達は24時間体制で娘の治療に当たってくださり、とても有難いと思っていました。でも、私にも娘を回復させるために何かできる事はないだろうか?と思い、ネットで遠隔で改善出来るものがないかと探したところ、「THE BRAIN]に出会ったのです。
それは、筋肉反射を使って脳にアプローチし、潜在意識に残っている傷「脳痕」を解消することで心や体の不調を改善するというものでした。
脳の可能性を信じていた私にとって「これだ!」と直感し脳のキネシオロジーを学ぶことにしたのです。
<遠隔セッション>
その先生に次女の様子を伝えると、早めに予約を入れて頂きました。その間に娘は、先生方や看護師さん達の24時間体制の治療のおかげで一般病棟に移ることが出来ました。
一般病棟に移ってから1週間後に、遠隔でセッションをして頂きました。次の日、私が次女のお見舞いに行くと、思っていたより顔色が良く、前日よりも明るく感じました。
それからは、私が出来る手技をいろいろと教えて頂き、毎日病院に行く度に脳機能、循環器機能、運動機能を改善するための手や足のマッサージやツボ押し、レイキなどをしていきました。
また、娘は入院してから鼻から栄養をとるための管を入れていたので、嚥下機能回復のためのマッサージやツボ押しなどもしていきました。
理学療法士の方にもお手伝いして頂き、ベッドの上に座る所からリハビリが始まりました。
次女は、日に日に顔色や体の動き、心肺機能の改善が見られました。
彼女は鼻からの管を抜かないように私がいないときには、手をベッドサイドに縛られていたので、とてもストレスがあったようでした。時々怒って大声を上げることもありました。辛かっただろうなあと思います。
<劇的な体調の変化>
しかし、次女は、持ち前の頑張りもあって、先生からの言葉「もう寝たきりになるかも知れない」という不安を拭い去るように、身体を自分の意思で動かしたり、歩いたりも出来るようになったのです。入院時から看てくれている看護師さんたちから、「○○ちゃんが歩いてる!」と驚かれ、退院時には車椅子が必要ないくらいまで改善しました。
レメディを摂ることでずっと出ていた咳も全く出なくなり、ほとんど吸引器が必要なくなりました。
食事は、入院時から鼻からチューブを入れて栄養剤や薬を入れるようになっていたので「もしかしたら遺漏になるかも知れない」と医師から言われたときにはショックでした。
しかし私は、再び口から食べられるようになって欲しいと願い、レメディやTHE BRAINの手技やマッサージをする事で嚥下機能の改善が見られ、退院して1ヶ月半後には再び口からごはんを食べることが出来るようになったのです。
「THE BRAIN]の素晴らしさ
THE BRAINの手技に出会ってから、次女の心と体が少しずつ良い方に改善してきています。この手技を使う事で、私自身や家族の心と体の不調も改善しています。
脳のキネシオロジーの筋肉反射を使い、潜在意識にアクセスする事で、脳に刻まれ傷ついた経験から生まれた「脳痕」を洗い出し、ツボを押さえたり、ある動きをすることで気になる不調を改善に導いていく「THE BRAIN」。
この素晴らしい手技を使って、これから多くの不調を抱える方のお役に立てるように努めていきたいです。
セラピストとして
現在は「THE BRAIN」を受講修了し、脳のキネシオロジーに特化した「Simpry The Brain」「タッチフォーヘルス」も学び、更にパワーアップしてセラピストとして活動しています。
今までの人生経験や学んできたこと(メディカルヒーラー、レイキ、自然療法、ホメオパシー、インナーチャイルドセラピストなど)を踏まえて、いろいろな方々との出会いもありました。得られた体験から、クライアント様のお悩みに寄り添いつつ、セッションを進めています。
今まで学んできたこと
・自然療法
・西洋レイキ
・メディカルヒーラー養成講座修了
・ファミリーホメオパス養成講座修了
・インナーチャイルドセラピスト養成講座修了
・THE BRAIN講座修了
・STB講座(Simply The Brain)修了
・タッチフォーヘルス1,2,3、4修了
トラウマ・過剰なストレス・体の不調・・・
心と脳が疲弊して思うような毎日が過ごせないあなたへ
悩みの根本原因である「脳痕」を解消する事で
あきらめかけていた心と体の不調が改善され
あなたらしくイキイキと過ごせるようになる
潜在意識へ素早くアプローチして脳と心と体をつなぐ
超覚醒ブレインマスターメソッド
「THE BRAIN]
あなたらしくあるために
脳と心と体をつなぐバランス調整で
自分軸をとりもどしてみませんか?